Archive for 3月, 2014

入院で安静

今日は思いがけず、病院駆け込みであった。救急外来か、普通外来か。救急って一過性の処置して後は普通外来へと言われるんで、とりま普通外来へ。どっちがショートカットか悩むけどな。病院を知らんし。朝会社に向かったアヤツに戻って来てもらい、タクシーで病院に飛び込み、はじめて車いすに乗った。3時間待たされてマジ死ぬかと思ったぞ。激痛に七転八倒な場面もありあり。詳しい病名は伏せますが、やはり健康がなによりですナ。担当の介護士さんが東南アジア系の外国人であった。もう一人の年配の女性介護士さんといい雰囲気でコンビを組んでた。この外国人介護士、真摯で思いやりにあふれてる青年だった。(女性介護士さんもいい人だった。)カタコトなので、日本が母国じゃないだろう。でも患者の言うことや気持ちを良く理解し全く問題ない。異国の地で資格をとって働くということは日本人が想像するよりたくさんの障害があって困難な場面があるかもな。生活だって偏見やら差別やら文化の違いやら感じることも多いだろう。それでも気持ち一つで患者1人1人を丁寧にカバーしていく姿勢には、オイラ、心底感動した。てゆうか、担当医師の高慢ぶりが目立つぞ。・・・ねえ、もう医師を一律に「先生」って呼ぶのやめない?あれぜったい医師に高慢な自己像作るよ。尊敬できる医師だけ、○○先生。尊敬できないなら○○さんでいいじゃん?オイラの主治医は喜んで○○先生って呼ぶけど、今日の担当医は呼べないよ。なんかさー、ヘイとスピーチとか外国人を排斥したり、差別するヤツラ、あれアホ?「日本人のいい人」と、「外国人のいい人」が仲良く平和に日本に住んでくれよ。きっといい社会になるぜ。まそんなわけでオイラ2週間は安静なりよ。

病院の責任

ここから先の事を詳細に思い出そうとすると、何故だか胃が痛くなる。

2月20日の午後、病院に呼ばれ、状況が悪くなった事を告げられた。

あちこち麻痺して意識もなくなった父の身体は、普通の人なら無意識にできる事ができなくなった。
舌が喉奥まで落ち込み、元の位置に戻らない。
ぐっと狭まる気管と食道。

一通り説明を終え、栄養補給のカテーテルを父の血管にぶっこむ処置の同意書にサインをすると、最後に先生は延命処置について聞いてきた。

『心臓マッサージまでと、喉に穴あけて管通す人工呼吸器。チキンオアビーフ?』(意訳)

母は泣いた。
これまでで一番打ちのめされていた。

明日までに決めて欲しいと言われて帰った。

帰り道はよく晴れていた。
弟の命日が今日だったと、忘れていた事を思い出した。

2月21日の朝。

私は病院に電話をかけた。
そして母と話し合って決めた事を伝えた。

「心臓マッサージまででお願いします」

午後2時過ぎ、電話が鳴った。
うちの電話はいまだに黒電話なので一々心臓に悪い。

病院だった。
病院は、朝に電話をかけたのが私で、今電話をとったのも私だったから、家に私しかいないと思ったのだろう。

『娘さんだけでもいいので急いで病院に来てください』

これで嫌な予感を感じない方がどうかしている。

母と私が病院に着くと、父がいるはずのナースステーションの隣の部屋(ICU)はドアが閉まり、慌ただしい雰囲気があった。

母も私も、この時までは高をくくっていたのだ。
何だかんだ言っても結局は回復するのだろうと。

医者の先生は言った。
自発的な呼吸ができなくなった。
心臓も一度止まった。
今は医者が一人付いて、手動で空気を肺に送っている。

そして今すぐ決めてくれ、これからどうするかを。

私は先生に黙って欲しいと言いたくなった。
これ以上聞いたら母が持たない。

だけど先生は、親切にわかりやすく二つの見覚えのある選択肢を出した。

一つは人工呼吸器をつけて、父の呼吸を確保する事。
もう一つは、自然というものに任せる事。

先生は、私たちが訊いた事に答えられる範囲で答えてくれた。

人工呼吸器をつけたらどれだけ生きられるかはわからない。
人工呼吸器をつけなかったらどれだけ生きられるかは答えられない。
父が回復する可能性はゼロではない。
どれほどの確率で快方に向かうかはわからない。
糖尿病が身体の循環と抵抗力に深刻な悪影響を及ぼしている。

母はどうするか決められなかった。

見かねた介護士(ベテラン)さんが、私たちに父の様子をみて決めたらどうかと勧めてくれた。
母は立ち上がれなかったので、私だけで行った。

シュゴーシュゴーと空気の音がしていた。
父は思ったより血色が良かった。
音がする度に喉がべこべこと動いていた。
枕元に医師がいて、大きなゴムのボールのようなものをべこべこと押していた。
そうやって、父の身体に空気を送っていた。

ゴムの袋から肉の袋へ空気が移動している。
それだけの事なのに、涙が垂れ流しになった。

反射的に無理だと思った。
これは決して元に戻らない。
思った事がそのまま口から出た。

「無理、無理、無理無理。これ、母さんに見せられない」

これはもう生き物ではないと、今思えば実に身勝手な判断だったと思う。
目の前で病院の皆さんが頑張ってたのに、開口一番『無理』とか本当にどうかしている。

母の所に戻った私は泣きながら『無理』とだけ言った。
それが迷う母の背を押すのがわかっていた。
そうしたら父がどうなるのかもわかっていた。

父はICUから誰もいない二人部屋に移った。
装備は幾つかの計器と酸素マスクだけ

静かな静かな部屋で、親子三人。

しばらくして母に、親戚にこの事を知らせて欲しい頼まれ、電話をかけに部屋を出た。

父サイドの親類縁者はほぼ全滅してるので、親戚と言えば母方の伯母になる。

連絡すると、伯母はひどく驚いていた。
この間、5分もなかったろう。

部屋に戻ると、脳波計の波がフラットになっていた。

父の枕元に母が立っていた。

「お父さんって呼んだらね、すっと(半開きだった)目をつぶったんよ」

それからすぐに先生と介護士さんが来て、父の瞳孔と時計を確認した。

「午後3時3分、お亡くなりになりました」

享年63歳。

長かったのか短かったのか、私には何とも言えない。

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